<   2004年 12月 ( 3 )   > この月の画像一覧

教育者・・指導者とは!?!

先日、斯様な記事を読んだ。仔細はわからねど、社会一般の大人の方々は、教育者を何と思っているのだろう??

      **********************

<国語教諭>相田みつをの詩知らず、女子生徒けなす [ 12月25日 03時00分 ]

 書き初めの宿題に書家、詩人として著名な相田みつをの詩を書いたところ、中学の男性国語教諭(53)に「やくざの書くような言葉だ」などとばかにされ、これが原因で卒業文集にもほおに傷のある似顔絵を描かれたとして、横浜市立中学の元女子生徒が市に慰謝料など350万円の支払いを求めた訴訟で、横浜地裁の河辺義典裁判長は24日、教諭らの責任を認め、市に計25万円の支払いを命じた。元生徒は別の男性教諭(46)から部活動中に腰をけられており、支払額はこの賠償5万円を含む。

 判決によると、元生徒は3年生だった01年1月、「花はたださく ただひたすらに」と書いた書き初めを、国語の授業に提出した。書家で詩人だった相田みつをの詩だが、国語教諭はこの詩を知らず、ほおに指を当てて(傷跡を)なぞる仕草をして「こういう人たちが書くような言葉だね」と発言した。同級生は笑い、元生徒は「やくざ」などとからかわれるようになった。

 その後、生徒たちが卒業文集で互いの10年後を想像した似顔絵を描き合った際、元生徒は、ほおに傷がある絵を描かれた。担任の女性教諭(38)は、絵を見ていながら修正せずに文集を配った。

 学校はその後、元生徒の母親の抗議で文集を回収し、印刷し直した文集を配り直した。

 判決は教諭の発言を「(発言で)嫌がらせを受けるのは当然予想され、不適切で軽率」と批判。似顔絵についても「(担任が)訂正の必要性を認識すべきだった」とした。【内橋寿明】

      **********************

この記事を読んで、小中教育・義務教育とは!?!国語の先生であっても相田みつをのすべてを知る由もなし。それはさておき、初等中等教育に携わる先生方も含めて、いいたいのは、教育の現場・事象を言う前に、本質を考えてほしい。「教諭」とは、字のごとく諭すことである、つまりは、個々の生徒・児童の能力を引き出してやることだ。その上で学力向上を、、、方法等を示してやることにつきよう。問題の教諭にしてもその点で、感覚が狂ってる。言わんや、社会一般でいえることだと思うのだ。

 「自分自身を見つけよう!!」「授業を楽しもう」こんな感覚は、あまり見うけられない。高校や大学が、変化してる中で、変革期にいる小中学生に対してももっと真摯に対応しなければ行けないだろう。
※ ※ ※ ※ ※    
(7~8年前の日記から)
私は、ドイツで巡り合った学者から多くを学んだが、その中で勉強・スポ-ツ共に「基礎・基本」が如何に大切かを知らされた。日本の教育制度・指導方法の中で何が欠落しているのだろうか!?「学力とか能力、教授・指導」の捉え方を受ける側の生徒自身が、理解して臨んでいるだろうか。この疑問が絶えず付きまとう。なぜに「創造性の発露」がないのかを考え続けてきたが、詰め込み的で物事を一元化する傾向にあり、多様性が無い。創造的思考の向上は、自らが自己啓発し向上させるものである。学習の面白さスポ-ツの楽しさを本当に自分の物にしているであろうか?与えられた場で暗示に掛かっているのが、今の日本の子供であると思える。主体性、即ち、自分を見つけてほしいのである。
 学校教育の根幹、「学習指導要領」が大改革され、実施・運用され始めた。『21世紀を担う子供達を如何なる方向に教育すべきか』重大な指針が、示されはじめている。高等教育の教授法、大学入試や大学のあり方、更には初等・中等教育に対しても戦後初めての大改革が進行しているはずなのだが。。。暗記や教えられた小手先の解法は強くても自らが考え解決しようとする能動的学究心、特に「独創的思考」や「目的意識」が極度に低下しており大学側は危機感を持っている。『大学とは何ぞや?』自己哲学を追求させず単なる専門知識を教授していた。こうした状況の下で企業は、有・無名大学を問わず大学卒は大同小異とばかりに何処の大学出身者でも採用する傾向にあり、企業が入社後に教育すればよしとしている。大学間の格差がなくなり大変よいことのように思いがちだが各大学の特徴が無くなった。裏を返せば、小・中・高校と画一的な教育を受けてきた事を露呈する結果に帰し、個性や独創性は否定されてきた。とりわけ高校教育が、『進級の為の教育に偏重し個性を重んじる進路指導に欠如している、高校教育の本質は何かが問題であり原因』との指摘が多数の研究者から報告されるに至り次代を担う高校生に「将来目標を持ち学ぶ事の喜びや理解する事の楽しさを会得できる指導方法」を検討し始めている。即ち、集団型の高校教育を補完すると共に生徒個人の力量に応じた指導と生徒自身の頭脳環境を学習の本質に導き、学力の向上や能力の開発をも同時に引き出そうと検討しているのである。団体主義的思考から個人主義的思考への変革、個性の尊重を第一に掲げる事で今後は大学自体・各学部にも独自の個性・ユニ-クさが出てくるものと期待される。
10年以上も前に始まっているのだが・・・。
       ◆ 大学設置基準緩和措置 ◆
 平成3年5月に文部大臣の諮問機関「大学審議会」は、「大学設置基準等及び学位規則の改正について」と題する注目の答申を発表した。受けた文部省は、平成3年7月1日付けで施行令を発布、以下がその概略。
  『改正点』
『〔現1年の修得単位124単位〕の項目に置いて「授業科目の区分に関する規定」の項目が削除され、大学の主体性が大きく問われだした。
 従来の単位は、一般教育36,外国語8,保健体育4,専門教育76,の各単位配分で合計124単位が修得単位であったが、先般の改正では、124単位修得自体は変わらないが科目構成は、大学の自由裁量・選択に移行した事が、改革の主眼。移行措置として①従来通り ②選択科目に変更 ③廃止の3通りの何れかを各大学が選択し、文部省に報告することを義務ずけている。大学審議会の答申に寄れば「これからの時代は専門的な知識はもちろんのこと自らが考え判断する事も要求される。その為に、これまで以上に“情報処理能力・外国語能力・表現能力”などの力をつける訓練が大学で重要視される。」この視点からするとコンピュタ-を使った教育(パソコン一人1台)やこれまでとは違った外国語教育(外国人教員による会話重視の語学教育やLL教室を使った五感教育)、それに対話討論型(ゼミ形式)の授業が広く導入されて行くだろう。また、生涯教育の視点から昼夜開構制(同一学部で昼・夜の双方の時間帯に授業を行う事)の導入や地域社会への積極的な貢献等も検討され始めた。更には、国際化時代を反映して外国人留学生との交流も盛んになり、海外大学との単位互換制度も充実して行くと予想される。、しかし、急激な内容改革が全大学で実施されるとは思えない。その理由として大学教員の充実があり、規則によれば「学生の人数に応じた教員の数が問題で教員数は、教授・助教授・講師の合計数の半数以上が原則として教授でなければならない」としている点である。国公立大学は、もとより私立大学でも検討し始めているが大方の大学は、準備不足と云うのが現状である。
 同時に高校の教育方法も改革に合わせ平成6年度の高校指導要領では人的能力資源の開発・国際化時代への対応を目指し、また、生徒一人一人の個性を活かすため能力や適性、関心の多様化に応じたカリキュラムを目指す、とある。
 受験の為の勉強になり過ぎた現状から個々の人間性尊重の方向に進み学問本来の姿になりつつある。今後の高校教育は、広い視野に立った教養(基礎)を第一に身に付け、学際的な総合知識を学びつつ専門分野との融合を図れる人材育成に入る事は間違いなく、以上の事柄も踏まえ本質的学問思考を早い時期から身につけておく事は、有用である。これは、将来を見つめ、一個の人間として、生涯を考える上でも大切な時期であることを認識し、学ぶ側の考え方を生徒自身が見つける事。そして高校・大学の教育の主眼を把握しておくとよい。従来からの方法論とは別な角度からの考察も参考になるのではないかと思うのだ。                     
  ◆学力・能力って何だろう?◆
古いことだが、基本的なこと。            
『考える,学ぶ,忘れる』この三つの作用をいかに活かせるか、相互作用できるかで、学力・能力が養われ向上していく。「教わる、学習する」学校・自宅で相・対している勉強を自分の側から考えたことがあるだろうか?
 様々な学習法の中で“学習タイプ”という表現があるが。。。 
理解力、記憶力、再現力の得手不得手が、どうして起こるか?その得手不得手がどの程度、学力に影響を与えているか?これは、五感(視・聴・嗅・味・触)による導入路の優劣である。例えば、視覚・聴覚・触覚・言語・会話等どの部分が得手・不得手かを見つけることである。自分のクセを自らが見つけ、更には複雑な感情や感覚あるいは意欲や動機づけの各種要因が、どのように学力・勉強方法に影響を与えているかを知って如何に対応させるかを検討して欲しい。以下は、ドイツの生化学者が発表した、ずいぶんと昔のことだが、再考してみるのもよいのでは!!(子の感覚の下地が、小中学校での教諭の役割だ。
  ☆ 自分にあった多様な学習法・勉強方法の問題点を発見する ★
生徒は、授業において教師と共振作用をもたらす為に教師を尊敬・好意的感覚で接しなければならない。
相対的合致・パ-トナ-(教える・教わる)としての信頼関係を築く.その共振作用(共鳴)があるか否かが問題。嫌いな先生の科目は、成績が悪い。思い当たるのでは。これを思考阻害(シナプス障害)という。拒絶反応を示す相手と「対立」せずに「調和」する方法を見つける。授業がつまらない・授業が分からない・先生が嫌いだ・勉強が嫌いだ、と云う前に自分のタイプを見つけて学習が好きになるような得意な部分を見つける努力をしてみる事だ。
対する指導者は、それらを引き出し、見つける役目である(仔細は、端折って)。
一般的に受験勉強は、無意味と思いがちだが学習と云う本質からみると知識・見識の蓄積で良いのだが問題は、蓄積した知識・見識を意識(顕在意識)の中に覚え続けられるか。欧米の高校生に比べ日本の高校生が勉強し過ぎとは思わない。勉強の内容・質で異なるとは思えるが..。高等学問の基礎を如何に充実させるかが、最重要課題でここが欧米との違いである。日本の教育は、基礎力を程々にしてより多くの知識・高度な解析技術を学んできた。これでは、本質を充分に学べない。基礎力の充実を多角面から検討する時期にきている。『土台づくり』をまずは心掛け確信を持って基礎勉強だけに集中しよう。必ず応用力は見出せる。受験の為の勉強に終始せず、自分自身の勉強に心すべきである。今一つ、文明の源は『文化』、『自然との共存』を意識の根底に置くこと。人間中心社会では、古代文明の二の舞になる。「謙虚な気持ち・情熱的意欲」この相反する様な思考は、同居している。思考の原点であろうか。
学力とは、①すでに学び取った知識や技能。②今後、学ぼうとする準備状態。能力とは、課題遂行や環境適応において個人が発揮する身体的または精神的な力、即ち解決の速さや正確さ、作業の能率、学習の成熟度などから判断する時に使う。勉強の場で、出来る・出来ないと云う表現で簡単に云われるが、自分のタイプを見つける事が自分の能力であり才能。その能力を駆使して学力を向上させるのである。更には、個々に習得時間の差がある事、方法も違う事を認識し、能力の個人差で学力を判断するのではなく、自分のペ-スをつかむ事が、大切であろう。
物の考え方として興味深い事に西欧と日本では違いがある。西欧社会では、先ずは初等教育を論じ順次上に向かって構築していく。大学は専門的最高学府として大学それぞれが自由な気風と独自の展開を持つ。つまりアカデミアであり国が管理する方向にない。対する日本は、大学はかくあるべきと展開しそれに従い下に向かっていく。どちらが良いかは別にしても面白い展開だ。
 初等教育論でドイツの教育学論文に示唆に富む表現を見たことがあった。「教師は、基礎学校における基礎知識の教育内容にいかに対処するか」国情を反映しているのは、学力は、実社会でも身に付く。対して能力は、子供期に充実させると論じている。この論文の表題にある基礎学校とは、小学校の4年生迄を指す言葉〓ドイツでは、9歳~10歳で将来の方向が決定する。①職人等を養成するハウプトシュ-レ(基幹学校6年制)②商業系の社会人を養成するレアルシュ-レ(実践学校6年制)③大学進学希望者が進むギムナジウム(9年制)の3者選択だが学力で選別されるのである。基礎知識(Sachunterrichts) とは、Die Erziehung und der Unterricht(Bildung)即ちErziehung(教育による知識・技能・しつけ) とUnterricht(授業)の合体語で広く『教養』(Bildung)を身に付ける事が最も大切であると示唆している。ドイツ語の表現で授業・教授という言葉の使い方は、日本に於ける高校生までは"Bildung"(教養) と云う語を用い大学レベルにて"Unterricht"(教授)と云う言葉を用いている。即ち、日本語に置き換えると小・中・高の10年間で教養を身に付け大学や実社会で基礎知識と専門事項の指導を受ける(教授)、正に的を射た表現である。
 又、課外活動を見ても日本の中・高校生の部活動は、与えられた場が少々画一的であるような気がする。特にスポ-ツに関して実感する。一スポ-ツ愛好者として独自に対応を展開する事が如何に難しいか、小学生時代から大方、体験している事。部活の場では、独自の行動は出来ない。誰もが好奇心的に体験したい点は無視され専門的指向・競技一辺倒の様な気がする。中学生には、楽しみを見つける為に体験して見たい生徒と既に専門的・競技指向の生徒に対する指導は、分けて対応して欲しいものである。部活の目的を鮮明にして生徒に示して欲しく感じるのである。スポ-ツや部活の最初は、楽しむ事だ。楽しむスポ-ツを考え教育の場で対処できないものか?早くして専門競技にに専念するとその競技用の身体に出来上がってしまう。中学時代は、色々な動作を覚えるべきではないか??ドイツのジュニア陸上の大会では、単独種目はなく5競技で総合成績を競わせる。バランスのとれた総合運動能力を身に付けさせる配慮から。更には、生徒各自が構築するべき練習の積み重ねが個々に行われていない。私が関係している自転車スポ-ツにしてしかり。西欧での子供スポ-ツ指導者制度の充実を見ると日本は、お粗末この上ない。その西欧ですら問題を抱えている。『スポ-ツは、子供期の人格形成・心理的発達に良いと言われてきたが「スポ-ツは特定の性格特性を持った人達を引き付ける様に構造化され、それ以外の特性を持った人達を閉め出している」と云う』、成長期の子供に対する指導は、個人の成熟度、内面からの意欲を見据えて個別的に対応すべきと、試行を繰り返している。今、日本においても検討に値する課題であろうか。
以前、特別授業をした折、中学生にもらった感想文の中に。。。「朝練は無意味です。昼間の練習と同じ様な練習をしてはいけない」と私が話をした事に対する驚きが述べられていた。
 『ザリヤ-ツカ』こんな言葉を耳にした事があるだろうか?西欧のスポ-ツ関係者なら今や常識であるが、日本の子供スポ-ツの指導者で知っている人は、少ないだろう。この言葉は、旧ソ連のスポ-ツ指導者が提唱したコンディショニングの事で、準備運動という事。朝、起きた時の運動能力・作業能力は、とても低い。そこで朝、目覚めたら食事の前に10~20分程、散歩をするとか体操をする、或いはスロ-ジョギング等をするとよいのである。人間の身体活動は、神経系・内分泌系・運動噐(筋肉・靱帯・骨・関節)が協働して行うが、起きた時は、それらが上手く連合しない。そこで散歩等の動き、つまり準備運動をすること(身体全体を活性化させる)で脳に酸素をあたえ、より良い状態にする。そのあとで食事を取ると身体機能を更に良くする。こうした準備運動をし、ある一定の水準以上の体調にして何かを始めるとよいと言うことである。このような準備運動を朝練習と勘違いした日本の指導者、失礼だが語学力の問題もあったようだ。ともかく授業がある生徒にとって朝練(激しい運動)は、疲れるだけである。学校側でも心して対応をお願いする次第である。朝の散歩等は、学習前の準備としても良いことで生活の一部として取り入れて欲しい。前記したことだが、中学生は、巧みさのトレ-ニングでよく、あらゆる運動動作の向上を目指すべきだが、専門種目のトレ-ニングに偏っている。これらは、愚息や友達に聞いての判断だが、効率よくかつ過剰にならないよう、そして多様な練習法を指導して頂きたく思う。神経系(大脳生理)・運動器にしろ疲れるという事は身体にとってよくないがトレ-ニング自体は疲れさす行動で、疲れ・回復のバランスで実力が向上する。即ち、トレ-ニング後に入浴・睡眠・栄養の補給が上手く行くとトレ-ニングを始めた時より高い水準で止まる。これを「超回復」と云う。中学生の練習時間・内容を効率の良いものにすれば、より良い向上、生徒の自信にもつながる。

********************

前記の裁判結果を、目にすると、この10余年・・・教育界は、何をしていたのだろう???と不可思議に思う。
私の感覚が・・・古いのか否か、は分からないが、、、指導者が、導いていないように感じられる。
それ以前に、1個の大人として、子供に接する対応が、偏向している。教育者としての尊厳は見られないではないか。。。友達感覚でもよいが、好感もたれる・・・その上で、尊ばれる指導者であってほしいものだ。それが・・・教諭たる「諭」であろう。更には、社会体質そのものが、ずれてるのだろうか??
[PR]
by redhupa | 2004-12-31 21:56 | 襍文化考

パイプの煙り

パイプを燻らせながら事象を思いめぐらしてみたい。2005年に向かっての準備段階!!c0021554_11475166.gif
[PR]
by redhupa | 2004-12-29 11:50

イルカ!!!

イルカがニュージーランドの遊泳者をサメから守る
[ 2004年11月24日 04時39分 ]

[ウェリントン 23日 ロイター]イルカの群れが海水浴する人たちを取り囲み、ホホジロザメの攻撃から守った。

ライフセーバーのロブ・ハウズ、その15歳の娘ニッキー、カリーナ・クーパーとヘレン・スレードの4人がニュージーランドの北の島ファンガレイの海岸から100メートルを泳いでいたとき、イルカの群れがやってきた。なんと人間たちをサメから守るために。

「イルカたちは僕らを囲み、4人全員をひとかたまりにして周りにきつい輪を作った」火曜日、ハウズはニュージーランド・プレス・アソシエーション(NZPA)に語った。

集団から逃れようとしたハウズを二匹の大きなイルカが押し戻したその瞬間、3メートルのホホシロザメがこちらへ向かって泳いでくるのが見えた。

「ただただ恐ろしかった。2メートルしか離れていない場所で、水はものすごく澄んでいたから、自分の顔の鼻と同じぐらいにはっきり見えた」ハウズはふりかえる。

「イルカたちは僕たちを守るためにまわりを囲い込んだんだ」

ライフセーバーたちは岸辺まで安全に泳ぎつくまでに、イルカに囲まれて40分間を過ごした。この事件は10月30日に起こったが、今日まで秘密にしておいたという。

環境団体オルカ・リサーチによれば、イルカは自身と子どもを守るためにサメを攻撃するので、人間を守る行動をとることも理解できるという。

「彼らは遊泳者への危険を察知して行動を起こしたのでしょう」オルカのイングリッド・ヴィサーはNZPAに語った。
[PR]
by redhupa | 2004-12-24 04:45 | 環境